history

 ジョン・ハワード・ジョーンズは1955年2月23日、ウェールズ出身の両親ジョン&テルマ・ジョーンズの長男として英国サザンプトンに生まれた。ロイ、マーティン、ポールの3人の弟がいる。ハワードがピアノを始めたのは7歳のとき。父親が一家を伴ってカナダに赴任した折、少年ハワードはカナダのTV番組に出演し、ウェールズ語の歌をうたうという経験をしている。

 イギリスでもハワードは各地の学校を転々とした。レスター、ラグビー、ウェールズのカーディフ、そしてもちろんハイウィカム。彼はここでロイヤル・グラマー・スクールに通い、Oレベル10科目とAレベル2科目を取得した(「だからって、べつに目的があったわけじゃないんだけど」とハワードは言っている)。そして音楽でAレベルを取るのはやめたほうがいいという音楽教師の忠告にあえて逆らい、ウォリアー(Warrior)という最初のバンドを結成。ジェネシスやエマーソン・レイク&パーマーといったバンドの影響を受けたウォリアーの音楽は、ハワードの説明によれば「エレクトロ・クラシカル・ロック」だった。

 1974年、ハワードはマンチェスターのロイヤル・ノーザン・カレッジ・オブ・ミュージックに進学し、クラシック・ピアノを学ぶ。在学中はピカディリー・ラジオで割りのいい夜間のアルバイトに精を出した。深夜12時から朝の6時までのあいだ、20分ごとにシンセサイザーで好きなように音楽を奏でるというものだ。原則としてはインストゥルメンタル曲に限られていたが、ときにはハワードが誘惑に抗しきれず歌をつけてしまうこともあり、そのたびに局には苦情の電話が寄せられた。

 ハワードはピアノ教師の仕事もしていた。そこで出会ったのが、のちに彼の妻となるジャン・スミスだ。バンの後ろに果物や野菜を積み込んでそれを売るという商売を2人でしていたときのこと、暴走車両に追突されてジャンが負傷した。たいしたケガではなかったものの、彼女はハワードに説得されて賠償金を要求し、支払われた金で彼にシンセサイザーをプレゼントする。このとき、店側の手違いで商品が2台届いたのだが、ハワードは2台の楽器のコンビネーションがすっかり気に入り、金を払って余分な1台も買い取った。以来、この店では彼を「正直者のハワード」と呼んでいる。

 ソロ・アーティストとしてのハワードの出発点は、ハイウィカムのクラブやパブだった。彼はこのころのショウで、彼の歌に合わせて踊ったりパントマイムをしたりしていたジェド・ホリーと知り合う。見た目にも楽しい印象的なステージを生み出す2人のパートナーシップは、その後1987年まで続く。

 ハワードは現在、ジャンと3人の子どもたちオシーン、ミカ、ジャスパーとともに、イングランドのサマーセットに住み、自分のスタジオでレコーディングをする日々を送っている。

1955年
2月23日、ハワード・ジョーンズ、イングランドのサザンプトンに生まれる。

1971〜72年
クラシック・ロックのバンド、ウォリアーを結成。
warrior
左より
ハワード・ジョーンズ(18)、ロジャー・バチェラー(ベース、19)、ポール・ザイスラー(ギター)、マルコム“ウィル”ピッチャー(ヴォーカル&フルート、21)、グレアム・ピッチャー(ドラムス、25)。

1977〜78年
ハイウィカムで包装用フィルムの工場に就職、ジャンと結婚。

1979年
シンセサイザーに出会う。購入しようと1台を注文したところ、手違いで2台が届けられる。この楽器の持つ可能性に魅了されて曲を作りはじめた彼は、音楽で生活していこうと決意し、ハイウィカム周辺でライヴ活動をスタート。このころからハワードのステージにジェド・ホリーが参加し、ハワードの歌詞を生き生きと視覚的に演じてみせる。

1980年
地元のファンを増やしつつ、活動の幅を徐々に広げる。

1980〜81年
ハワードとジャンはレコーディング契約を取りつけようと、エージェントやプロモーター、レコード会社などにつてを求める。「ワンマン・バンドなんて冗談だろう……成功するわけがない!」というのが大方の反応だった。が、それでもハワードはめげずに努力を続ける。

1982年

5月:エイルズベリーの「フライヤーズ」で、アカペラ・バンド「フライング・ピケッツ」および「ブルース・バンド」の前座を務める。ここでハワードは、当時のフライヤーズの支配人で、やがて彼のマネジャーとなるデヴィッド・ストップスに出会う。2人は固い友情を結び、11月にはデヴィッドがハワードのマネジャーに。ハワードの音楽的な才能にデヴィッドの熱意と経験が加わり、状況はついに好転しはじめる。

1983年


3月:BBCラジオ1のDJ、デヴィッド“キッド”ジェンセンの番組でセッションを行う。ハワードにとっての全国的なお披露目だった。

5月:チャイナ・クライシスのツアー16公演でサポート・アクトを務めることが、ツアー開始のわずか2日前に決定。

6月:24トラックで録音した「New Song」と「What Is Love?」のデモ・テープが功を奏し、英WEAおよび米エレクトラ・レコードと契約。

8月:デビュー・シングル「New Song」をリリース。

9月:OMDのツアー4公演と、ブリュッセルで7,500人を動員したピーター・ガブリエルのコンサートで前座を務める。

10月:デビュー・シングル「New Song」が全英3位のヒットとなり、チャンネル4の「Loose Talk」で初のTV出演。

12月:UKツアー7公演を行う。

1984年

1月:「What Is Love?」がUKチャートで最高位2位を記録。ハワードは音楽誌「スマッシュ・ヒッツ」と「No.1」、日刊紙「デイリー・エクスプレス」のそれぞれの読者投票で最優秀新人賞を獲得する。

 

3月:「Hide And Seek」が全英チャートの12位に。3月17日にリリースされた『Human's Lib』はUKアルバム・チャートで初登場1位の快挙を成し遂げ、発売後1週間で10万枚を売り上げる。全米チャートでも「New Song」が27位まで上昇。

また、3月1日には「ハワード・ジョーンズ・ファン・クラブ」が誕生する。



6月:「Pearl In The Shell」が全英チャート7位を記録。全米でも「What Is Love?」が33位、『Human's Lib』が55位にランクイン。

 







7月:ユーリズミックスの全米ツアーにサポート・アクトとして同行。

 



8月:「Like To Get To Know You Well」がUKチャート4位まで上昇。

10月:故郷のハイウィカムでのコンサートを収録したビデオ『Like To Get To Know You Well』をリリース。

「スマッシュ・ヒッツ」読者投票の年間ベスト・アルバム部門で『Human's Lib』が4位、ベスト・シングル部門で「What Is Love?」と「Like To Get To Know You Well」がそれぞれ7位と10位に選出される。

この『Human's Lib』受賞の知らせを受けて、ハワードは同誌にこうコメントしている。「ほんとに? そいつはすごい! 『Human's Lib』は僕の自信作だけど、これほど評判になるとは予想もしなかった。発売が3月だったのに、いまだにこのアルバムのことをみんなが覚えていてくれて、ものすごくうれしいよ」




12月:『The 12" Album』がリリースされ、UKチャートの14位に。ストロベリー・スイッチブレイドを前座に従えての全英ツアーは、クリスマス・イヴのロンドン・ロイヤル・アルバート・ホール公演で最高潮に達した。

 

 

1985年


グラミー賞授賞式のジョイント・セッションで、スティーヴィー・ワンダー、トーマス・ドルビーと共演。

2月:「Things Can Only Get Better」が全英6位のヒットに。

3月:『Dream Into Action』がUKチャートで最高位2位を記録。




4月16日:ロンドン・ウェンブリーのウェンブリー・アリーナで大規模コンサート。

6月:全米チャートで『Dream Into Action』が10位、「Things Can Only Get Better」が5位まで上昇。









7月:「Life In One Day」が全英14位に。7月13日にはウェンブリー・アリーナで行われた「ライヴ・エイド」に参加、「Hide And Seek」のアコースティック・ヴァージョンを演奏する。

9月:「Life In One Day」が全米チャート19位に。

 

11月:UKリリースから1年後、「Like To Get To Know You Well」がついにアメリカでも発売される。




1986年

3月:フィル・コリンズのプロデュースと参加を得て「No One Is To Blame」の改訂版をリリース。イギリスで16位を記録。

5月:ハワードのもっとも初期のスタジオ録音をフィーチャーしたアルバム『The Wycombe Compilation』がリリースされる。

収録曲「What Can I Say?」は、1981年9月19日にマーク・アンジェロ・スタジオで録音したもの。このアルバムにはハイウィカム出身のアーティストによる全12曲が収められた。

7月:「No One Is To Blame」の改訂版はイギリスよりもアメリカで評判を呼び、全米チャート4位のヒットとなる(ハワードが全米シングル・チャートで記録した最高位)。さらにAORチャートでは見事1位に。また「Action Replay」が発売され、34位にランクイン。



10月:「All I Want」が全英35位、アルバム『One To One』は10位まで上昇。

11月:ヘロイン撲滅キャンペーンのチャリティ・アルバム『Live In World』に「Little Bit Of Snow」を提供。アルバムの収益は、麻薬やアルコール中毒患者のリハビリ施設「フェニックス・ハウス」に寄付された。自身のアルバム『One To One』は全米56位。ビデオ『Last World Dream And Howard Jones Live』発売。「You Know I Love You...Don't You」が全英43位に。









12月:「You Know I Love You...Don't You」がアメリカで17位を記録。ハワードは日本で開催されたコンサート「University For Peace」に出演。

 




1987年

2月:「All I Want」が全米76位に。

3月:「Little Bit Of Snow」が全英70位に。ハワードはニューヨークにベジタリアン・レストラン「Nowhere」を開店。この店は1年も経たないうちに火事で全焼する。『One To One』を引っさげての全米ツアー中、彼はニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われたハリケーン・アイリーン被災者支援の慈善コンサートなど、さまざまな目的で企画された外部のショウにも多数出演する。




ロンドンで開かれた「プリンス・トラスト・コンサート」のために集まった「スーパーグループ」の一員として、世界的に名を成した多くのミュージシャンと共演。メンバーにはティナ・ターナーやミッジ・ユーロ、サー・ポール・マッカートニー、ポール・ヤング、マーク・キング、エリック・クラプトン、ブライアン・アダムズら、大物が名を連ねた。









5月:アメリカ版MTVでゲストVJに招かれる。






1988年

3月:「Everlasting Love」がUKチャートで62位まで上昇。

4月1日:「Cross That Line」が発売後1週間で全英64位、全米では65位に。



6月3日:「Everlasting Love」がアメリカで最高位12位に。ハワードは全米ツアーに乗り出す。

 


8月:「The Prisoner」が全米30位を記録。

1990年



11月:ケヴィン・ゴドリーの発案による『One World, One Voice』に音楽を提供。これは全世界で1億人以上が見たといわれるTV中継で初披露された。ハワードはボブ・ゲルドフとデュエットで「We Will Meet Again」を歌っている。




11月:エレクトラの40周年記念コンピレーション・アルバム『Rubaiyat』が全米チャート140位に登場。デヴィッド・オークス1968年のヒット曲「Road To Cairo」のハワードによるカヴァー・ヴァージョンが収録された。




1991年
16曲入りの実験的なアルバム『AAAAA: The 5 A's』に、下記のインストゥルメンタル3曲を寄せる。
「L'Homme Contre Danse」
「Good Friday The 13th」
「Float 54」

同アルバムにはハワードのアーティスト仲間、ステッグの作品も収められている。


5月:動物愛護団体PETAのためのベネフィット・アルバム『Tame Yourself』がリリースされる。ハワードの「Don't Be Part Of It」を収録したこのアルバムは、全米チャート165位にランクイン。




1992年
4月:イーストウェストより発売されたアルバム『In The Running』からのシングル「Lift Me Up」が全英で52位を記録。ハワードは短期の北米ツアーに出る。カリフォルニア州ロサンジェルスのヴァラエティ・アーツ・センターで行われたショウはソールドアウトの大盛況で、のちにリリースするべくライヴ録音された。


5月6〜7日:ロンドン・ユーストンのショー・シアターで2回の公演。

6月:「Lift Me Up」がアメリカで22位まで上昇。

1993年

WEA/イーストウェスト/エレクトラとの契約が満了するのを機にリリースされた『The Best Of Howard Jones』が、UKチャート初登場で最高位36位を記録。

12月15日:ハールスデンの「ミーン・フィドラー」に出演。

1996年
2月:2年間の沈黙を破って全米のクラブを回った前年のアンプラグド・ツアーに引き続き、ライヴ活動を再開。ハワード・ジョーンズ・エレクトロニック・オーケストラを率いてロンドンの「ジャズ・カフェ」とブルームズベリー・シアターでショウを行い、まもなく発売されるアルバム『Angels And Lovers』の収録曲をプレイする。また、1992年4月28日にロサンジェルスのヴァラエティ・アーツ・センターで行われたライヴ・アコースティック・パフォーマンスの模様を収めた『Live Acoustic America』が米プランプ・レコードからリリースされる。

1997年
みずから主宰するレーベルdtoxが発足。ハワードはこれについて次のようにコメントしている。「dtoxは、自分の音楽を発表するためのレーベルとして1997年に立ち上げた会社だ。音楽やアーティスティックな面を思いどおりにコントロールできることで、とても解放された気がした。その後、ほかのアーティストにも自由に音楽やアートを表現してもらおうと、dtox傘下でさまざまなプロジェクトを手がけるようになった」

2月5日:日本のバンダイが『Live Acoustic America』をリリース。ボーナス・トラック「Hide And Seek」が収められた。

2月17日:英チャンネル4の番組「Party Of Five」のサウンドトラックが発売される。まもなくリリースされるハワードのアルバム『Angels And Lovers』からの新曲「If You Love」をフィーチャー。

6月:日本のTV番組「ギフト」のサウンドトラック発売。これに収録されたハワードの新曲「Dreaming On」は、日本ではシングルとしてもリリースされた。

8月20日:日本のレコード会社、ポニー・キャニオンがアルバム『Angels And Lovers』をリリース。残念ながら、この作品は日本とアジアのみでの発売となる。

11月:イギリス国内でシングル「Angels And Lovers」を自身のレーベルdtoxからリリース。

1998年


7月6日:dtoxレーベルからシングル「Tomorrow Is Now」をリリース。また、イングランド・アスコットにオープンした「オリーズ・ダイナー」で2晩の公演。ベースとチャップマン・スティックのニック・ベッグス(元カジャグーグー)、ギターのロビン・ボウルト(フィッシュ)、ドラムスのケヴィン・ウィルキンソン(元チャイナ・クライシス)という顔ぶれのニュー・バンドを率いてのギグは、引き続きカムデンのジャズ・カフェ(7月8日)とサザンプトン(同8日)でも行われる。



7月14日:アーク21レコードがハワードのニュー・アルバム『People』をリリース。新曲と『Angels And Lovers』 の収録曲多数を取り混ぜた内容で、『Angels And Lovers』を聴くことのできなかったファンにとっては朗報だった。イギリスでの発売 は10月26日。

7月23日:ハワード・ジョーンズとヒューマン・リーグをゲストに迎えたカルチャー・クラブのツアー「Big Rewind」が、ジョージア州アトランタのチャステン・パークで幕開け。

1999年

2月8日:新年を迎えたハワードは、アルバム『People』からの初シングル「Let The People Have Their Say」をリリース。 BBCラジオ2が積極的にエアプレイをかけたが、このシングルは全英チャート99位に終わる。15日には「Let The People Have Their Say - The Sequel」も発売。

2月22日:ハワードの誕生日の前日、アルバム『People』の待望のUK盤がリリースされる。


2月27日:ロンドンのオックスフォード・ストリートにある「Borders Music And Book Store」でバンドとともに店頭ライヴ。

3月4日:バンドを引き連れて23公演におよぶ全英ツアーを開始。

6月:ドイツのレコード・レーベル「セヴン・デイズ・ミュージック」と契約し、「Let The People Have Their Say」のドイツ盤をリリース。

7月:バンドとともにアメリカで5公演を行うツアー。

8月:アメリカでさらに8公演、イギリスで6公演を行う。アルバム『People』がドイツとオーストリア、スイスで発売される。

10〜11月:ドイツ、オーストリア、スイスで8公演。ニック・ベッグスとガイ・リッチマンはべつの仕事の都合で参加できず、代わりにドラマーのジェフ・ホルロイドとベーシストのスティーヴ・ローソンが加わった。

11月15日:「Tomorrow Is Now」のドイツ盤リリース。

2000年

2月:ドイツで開かれたRSHゴールド・アワード・ショウで、ハワードが1999年最優秀カムバック賞を受賞。

4月:ヨーロッパで複数のミュージック・フェスティヴァルに出演。

6月13日:ひさしぶりのシングルとして、1986年のヒット曲「No One Is To Blame」の再録音ヴァージョンがヨーロッパ本土でリリースされる。このレコーディングにはミュンヘン交響楽団が参加。




7月10日:ヨーロッパ本土でアルバム『Perform.00』をリリース。新曲とかつてのヒット曲の改訂版が収められた作品。









10〜12月:「Nokia Night Of The Proms」に参加、スイス、ドイツ、ベルギー、オランダのヨーロッパ各国をツアー。72人編成のオーケストラと50人編成の合唱団がハワードをバックアップした。






2001年
1月31日:ハワード・ジョーンズ公式サイトで、世界初となるハワード・ジョーンズのフラッシュ・アニメーションを公開。「Let The People Have Their Say」に合わせて作成したレイヤードのアニメーションが、ウェブサイトhowardjones.europeに掲出された。

3月1日:公式ウェブサイト「howardjones.europe」が「howardjones.com」に移行。

4月5日:dtoxのウェブストアが正式にオープン。ハワードがみずから運営するオンラインストアで、dtox所属アーティストの商品を販売。

5月:'80年代のギグを再現するドイツのフェスティヴァルで、ハワードがヘッドライナーに。

7月25日:日本のレコード・レーベルAVEXが『Metamorphosis』をリリース。『Perform.00』の内容を若干変えたもので、世界的に有名なリミックス・チーム「Trouser Enthusiasts」による「What Is Love?」のリミックス・ヴァージョンが収録された。

7月26日:元ビートルズの伝説的ミュージシャン、リンゴ・スターの28公演におよぶ全米ツアーで、「リンゴ・スター・オール・スター・バンド」のキーボードを担当。2001年版オール・スター・バンドではまったく新しい豪華ラインアップが組まれ、ハワードのほか、元スーパートランプのフロントマンだったロジャー・ホジソン、ダンス・ミュージック界のパーカッション奏者シーラ・E、元モット・ザ・フープルのシンガー、イアン・ハンター、キング・クリムゾンとエマーソン・レイク&パーマーのシンガー兼ベーシスト、グレッグ・レイクが集結した。



9月26日:「The Peaceful Tour」の名で知られる全英ツアーを開始。このツアーでは画期的な試みとして、各公演のライヴ・レコーディングを収めたCDが、その晩のうちにファンに販売された。



12月31日:ボーンマス・インターナショナル・センターで行われた大晦日のコンサートで5,000人の観客を動員。ボーンマスでは史上最大の'80年代流ニュー・イヤーズ・イヴ・パーティーとなった。

2002年
1月1日:dtoxレーベルより『The Peaceful Tour Live』をリリース。

3月31日:両親のテルマ&ジョン・ジョーンズが「ハワード・ジョーンズ・インフォメーション・サービス」の業務を引退した記念に、2人への感謝をこめてイングランド・メイドンヘッドのノーデン・ファーム・センターでコンサートを行う。ハワードのグランド・ピアノとロビン・ボウルトのアコースティック・ギターのみのアコースティック・セット。




4月:ハドリー・ノーマン&キーブル(スパンダー・バレエ)、ABC、トーヤ、ゴー・ウェスト、チャイナ・クライシス、ベリンダ・カーライルとともに「Here & Now Tour 2002」に参加、全英で8公演のアリーナ・ツアーを行う。








6月:ニューヨーク、アリゾナ、ラスヴェガスをはじめ、アメリカをくまなく回るツアー。また、6月4日にはアメリカのライノー・レコードから『Howard Jones - The Essentials』が発売される。







8月:5,000人近い観客を集めたイングランドのノーザンプトン・フェスティヴァルでヘッドライナーを務める。






アメリカのソルトレイクシティで2公演を行う。片方はアコースティック、もう片方はエレクトリック・セット。このステージにはギターのロビン・ボウルト、ヴォーカルおよびライヴ・ミキシング担当のシャズとロビー(ともにdba)が参加。






10月24日:ロンドンのドーチェスター・ホテルで行われたBMIアワードの授賞式で、「No One Is To Blame」が2000〜2001年にアメリカのラジオでもっとも頻繁に流された曲として認められ、賞を贈られる。




2003年

3月:ドイツで8公演のツアー。ドイツ人シンガーのネーナも参加。



4月28日:待望のピアノ・ソロ・アルバム『Piano Solos - For Friends And Loved Ones』を発表。








6月14日:ロビン・ボウルトを伴い、ドイツのミュンヘン・オリンピアパークで公演。Charivari 95.5が後援。






7月:アメリカ東海岸のニューヨーク・エリア周辺をツアー。また、WB系のTVネットワーク11局で放送される「Morning News」に出演し、「Everlasting Love」と「No One Is To Blame」をピアノの弾き語りで演奏。




9月20日:ハワードのキャリアにおいて、もっとも重要なコンサートのひとつが行われる。「New Song」の発売20周年を記念してロンドンのシェパーズブッシュ・エンパイアで開催されたショウが大入り満員の大盛況。






11月17日:上記のコンサートに合わせて、ワーナー・ミュージックから2枚組のスペシャルCDが発売される。新たに編まれた『Very Best Of...』と、シングルのB面曲やCD未発表のレア・トラックを満載したセカンド・リミテッド・エディションCDのセットで、とくに後者はファンやコレクターが長年待ち望んでいた内容だった。『Very Best Of...』のほうにも、この記念すべき年に特別にレコーディングした新曲「Revolution Of The Heart」を収録。


2004年

4月2日:音楽業界での20年にわたる活動を認められ、ドイツのラジオ・レーゲンボーゲン・アワードを授与される。

コンピレーション・アルバム『Deeper Shades Of Euphoria』に、dbaのミックスによる「Revolution Of The Heart」が収録される。

5月:年初にクラブ用のプロモとしてリリースされた「Just Look At You」がUKアップフロント・クラブ・チャートの30位に登場。

アルバム『Retro Active 2』に「Look Mama - Megamamamix」が収録される。この曲がCD化されたのはこれが初めて。

6月:アメリカで数回の公演。

9月:ダンス・デュオMohtioが「Slip Away」をリリース。ハワードのヒット・シングル「Like To Get To Know You Well」をベースにしたこの曲はクラブ・シーンで大ヒット、メジャー・リリースが見込まれる。

9月30日:ハワードとギターのロビン・ボウルトが、イタリアのアスティで一日限りのアコースティック・コンサートを行う。

11月:「Slip Away」がノルウェーのプライム・カッツ・クラブ・チャートで見事No.1を獲得。

2005年

3月18日:DVD『The 20th Anniversary Concert』をリリース。2003年9月20日にシェパーズブッシュ・エンパイアで行われた壮大な20周年記念コンサートを記録したもの。

4月2日:長年遠ざかっていたイギリスのTVに再び登場。ITVの番組「Hit Me Baby One More Time」に出演し、「What Is Love?」とディドーの「White Flag」のカヴァー・ヴァージョンを演奏する。「What Is Love?」では愛娘ミカ・ジョーンズがバック・ヴォーカルでハワードのステージに初参加。

5月13日:スカンジナビアに凱旋し、1993年以来初となるライヴを行う。スウェーデンのイェーテボリで開催されたSAMAミュージック・フェスティヴァルで、熱狂する観衆にエレクトロニック・セットを披露。

6月16日:アメリカのTVで「Hit Me Baby One More Time」のアメリカ版に出演。このときも「What Is Love?」と「White Flag」を歌う。ハワードはNBC-TVが実施した視聴者投票で、最高得票こそ逃したものの、視聴者のお気に入りに選ばれる。ハワード・ジョーンズ公式ウェブサイトには、この番組の放送中から放送後の数時間に45,000件以上のアクセスが集中した。

9月5日:待望の新作エレクトロニック・アルバム『Revolution Of The Heart』をアメリカで発売。ほかの各国でも9月中にリリースされる。

9月9日:かつてハワードがしばしば出演した懐かしの会場、エイルズベリーのシビック・センターで『Revolution Of The Heart』のリリース記念コンサート。同アルバムの全曲を初めて通しで演奏する。